「功名が辻」の山内一豊は、この信長株を手に入れるが、それを手放し、
秀吉株に全生命力をつぎ込む。信長株はグループ本社の株で、秀吉株は
子会社の株である。
発行数が多く、時価も高騰していた信長株は、一豊には向かなかったの
かもしれない。
司馬遼太郎の原作では、そのことを見抜いたのも一豊の妻千代だった。
千代は、秀吉との邂逅のエピソードを一豊に話し、人となりを誉め、そ
れとなく秀吉株に乗り換えることをすすめる。一豊は織田家直参の籍を
残したまま秀吉の与力となる。
出向のようなもので、働きものの秀吉のもとにいたほうが、功名の機会
が多いというわけだった。
戦国のころの与力とは、侍大将などに貸し与えられる騎乗の武士のこと。
だから寄騎とも書く。戦場で馬に乗れるということは、雑兵ではなく将
校クラスの身分ということになる。
江戸期の与力とは、やや異なるかもしれない。かれらは、与力制度のも
と、町奉行所、京都所司代、大御番組などに属した。所司代は譜代大名、
町奉行などは旗本のなかから選抜されるが、与力は御目見(おめみえ)
以下の身分で、将軍に直接拝謁することはできなかった。
役目も一代限りだった。が、実際は子があらたに召し抱えられることに
よって世襲を維持した。
かれらは、奉行の家来(陪臣)ではなく、あくまで将軍直参だった。
奉行は、あるじではなく上司になる。将軍から力を貸し与えられている
から、こちらも与力なのである。また、似たような雇用形態である同心
の名も、もともとは戦場で心を同じにして加勢するということからつけ
られたという。
信長株は急成長を続けたが、本能寺の変で灰となった。
秀吉に投資を続けた一豊は、領地は小さいながらも諸侯のひとりに名を
つらねる身分となった。が、のちに創業者の秀吉が死ぬと家康株に乗り
換えた。家康という大将は260年の天下太平の世を築いた。一豊も国持ち
大名となった。
時空を超え、歴史を俯瞰でみるとき、すべての関わりがよくわかる。
だけど、その時間をなまみで生きている人間には、部分しかみえない。
目の前にある情報だけを頼りに、脳をしぼって勝ち馬に乗らなければな
らない。
一豊と千代は、売り時を誤らなかった。
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