2006年03月31日

ニュートンと錬金術

錬金術師ニュートン―ヤヌス的天才の肖像

ヨーロッパには、いまも少数ながら錬金術師がいるらしい。
以前、作家の荒俣宏がNHKの番組で英国の錬金術師を取材していた。
錬金術師は「金」を生み出すために、部屋いっぱいに仕掛けられた妖しげ
な装置の中に埋もれていた。
そこで、ゆっくり、ゆっくりと生命を育てるように気の遠くなるような時
間を過ごしているという。

アイザック・ニュートンは錬金術に関する膨大な実験ノートを遺している。
銀、水銀、アンチモンなどから「金」を生み出すことに、もう少しで成功
するところだったようだ。
少なくとも、ニュートン自身は、そう思っていたふしがある。
ニュートンは、近代科学の祖であると同時に、マニアックな錬金術師でも
あった。

不思議なのは、錬金術師ニュートンが人類にもたらした最大の功績は、
「科学的世界観」の確立といわれること。
だからこそ、近代科学の祖といわれている。
近代科学的な世界観、方法論とは、たとえば「万有引力」がなぜ存在する
のか?など、哲学的、オカルト的なことは、いっさい問わない。
その力学的な法則のみを発見し、数学で記述すればいい。つまり、誰にで
も繰り返し有効な普遍性、法則性を解き明かすことのみが問われるのであ
る。そのために、自然の言葉を数学に翻訳する。ニュートンは、微積分の
概念の発明者でもあって、数学の発展にも大いに貢献している。

さらに不思議なのは、物体と物体が互いに引き合うという「万有引力」の
発見そのものが、世界霊、生命活性素などといったオカルト的な世界観か
ら生まれていること。
宗教的、魔女的、オカルト的な世界観から近代科学の世界観へ、人類はど
う精神形態を進化させたか。
そのミッシングリンク的な存在が、ニュートンその人なのかもしれない。
posted by 読書人ジョーカー at 17:58| Comment(0) | ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月27日

泣かせる六平太

ベートーベンの「月光」という曲には、不思議な哀しみが宿っているよう
な気がする。「月光」は、想いをよせたジュリエッタに捧げたものといわ
れる。その恋は成就しなかったらしい。

一豊(上川隆也)が、日輪の下で功名をたてるのなら、六平太(香川照之)
は、あくまで陰から、千代に柔らかな光を照らす、月のように生きる。
陰と陽、ふたりの男が『功名が辻』第12回「信玄の影」で激突した。
青い月光の下での、幻想じみた闘いだった。
千代も小りんも、それほどまでに想いをよせる一豊とは、どれほどの男か。
たいした男でないのなら、ほふってしまってもいい。六平太は、一豊の性
根の底を覗くために襲いかかったように感じた。

たとえば暦にも、太陰と太陽がある。
日本では、明治のはじめ頃まで、太陰太陽暦という独特の暦をつかってい
た。
月と太陽、双方の運行を見つめた暦で、花の咲く時期や、雨の降る頃、霜
の降りるときなど、日本の季節の移ろいにあった非常に正確なものだった
という。
道教によると、自然は、陽と陰によって成り立っている。
陰と陽が、互いにささえあいながら回転することで自然はうまく動く。
陰となり、影になることで世を自在に生きぬくのか。
日の光に晒されて生きるか、人それぞれにあった道を選ぶしかない。

「日輪の下で堂々と功名を立てる男でないと立身はできぬ。千代がそういった」
一豊がこのセリフをはいたとき、六平太は気をそがれ、戦意を失った。
自分とは、別の世界で生きる千代を想ったのかもしれない。

月見草の花言葉は、無言の恋だという。
posted by 読書人ジョーカー at 18:34| Comment(0) | 「功名が辻」関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月23日

上忍と下忍の違い

司馬遼太郎が忍者について調べているときに、ある史料に上忍と下忍とい
うものが記されているのをみつけたという。史料によると、上忍は術にす
ぐれた有能な忍びで、下忍はそうではないもののことであったらしい。
ところが司馬は、「梟の城」で上忍と下忍を人間の階級分けとして使って
いる。
上忍を地侍(小領主)、下忍を小作人とし、忍者集団の中での身分とした
のである。
のちに自身でも、「少し独創的にすぎたか」と述懐している。

こうした社会構図を小説の中に持ち込むと、登場人物の行動のモチベーショ
ンが明確になってくるのかもしれない。
上忍である葛籠重蔵(映画版・中井貴一)は、時代がどう変わろうと、独
立した職能者である忍者としての道を生きる。
これに対し、下忍の風間五平〈上川隆也)は、忍びを捨て、武士として主君
に仕えることで、身分の上昇をはかろうとする。
利の対立なら和解もあるかもしれないが、身分社会の怨念がそこにくわわ
ると、ほふりあうしかなくなる。忍びとして秀吉を狙う重蔵と、守りの側
にたつ五平は術を駆使して激突する。

「竜馬がゆく」における、土佐の上士と郷士という身分上の対立も、物語
上、重要な構図のひとつになっていると思う。
「竜馬がゆく」では、のちに上士である板垣退助や後藤象二郎が、みずか
ら体制をひっくり返すために動きはじめ、維新の原動力となっていくこと
で、読者にある種のカタルシスをもたらす。

忍者など、職能に生きるひとたちは、職にのみ忠実で、誇り高い。
服部半蔵正就は、徳川の旗本として伊賀同心を率いたが、彼らの誇りを傷
つけたため、乱を起こされ、服部家は改易となっている。
忍びの集団とは、身につけた技能だけがものをいう、それぞれが自立した、
誇り高い集団ではなかったのかと思う。
posted by 読書人ジョーカー at 11:42| Comment(0) | 歴史・司馬遼関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。