2006年04月28日

細川ガラシャのこと

戦国の女たち―司馬遼太郎・傑作短篇選

「胡桃に酒」-司馬遼太郎傑作短篇選・戦国の女たち

明智光秀の三女たまの美しさは、日本書紀に出てくる謎の美女、衣通姫
(そとおりひめ)にたとえられる。
容姿絶妙にして比ぶものなし その艶色は衣を徹りて照れり。
美しさが衣から透けて光り輝くほどだったという。
たまの悲劇は多くのひとが知っている。嫁に行かない方がいいのではな
いかと思わせるが、そうはいかない。
「嫁御料人は、丹波からくる」
細川幽斉(藤孝)の長子忠興に配されることが決まった。
「若君は、くるい者ではあるまいか」
忠興は、ある種の異常人として描かれている。
病的な負けず嫌いの激情家で、行動もふつうではなく、たまを人形のよ
うに扱う。いつ壊されるのかわからない。

忠興の悋気は尋常ではなかった。
「奥にはいかなる場合でも男を入れてはならぬ」とした。
ある日、ちらりとたまの姿を見ただけの庭師の首を刎ねた。
またある日、見たのかどうか定かでない屋根師の首をその場でたたきお
とした。
たまの心は白くなった。

不幸は続く。父光秀が「本能寺の変」を起こし、謀反人として秀吉に滅
ぼされた。
「悲しむ者は幸福なり」
空白の心に、キリシタンの教えが染み込んだのかもしれない。
たまは、洗礼をうけ細川伽羅奢(ガラシャ)夫人となった。
細川屋敷に棄児たちをひきいれ、慈しむことで救われるかに思われた。
しかし「関ヶ原」の前夜、忠興の病的な精神が、ガラシャに最後の不幸
を与えた。
忠興を狂わせたのは、ガラシャの美しさだったのか、あるいは聡明さだっ
たのか。

「胡桃に酒」とは、鰻に梅干し、蟹に柿と同じような合食禁のこと。
司馬は、この夫婦の関係を、食い合わせの悪さにたとえたのかもしれない。
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2006年04月24日

源助は、自衛隊の施設科

「お腹を召すなど、わたくしの空耳でございますね?」
妊娠すると耳鳴りがするらしい。一豊(上川隆也)は「腹を斬る」と確か
にいった。源助の死の責任を取るという。 千代(仲間由紀恵)は自分の空
耳だと現実逃避した。

大河ドラマ『功名が辻』第16回「長篠の悲劇」。
戦場の馬防柵を作るなどという源助の仕事は、立派な工兵の役割である。
戦国の頃は黒鍬者、現在の自衛隊では施設科と呼ばれる専門集団がやる。
工兵は要塞を築いたり、橋、道路、滑走路などを作ったりする。

信長は、工兵や輜重兵(荷駄隊)を創設し、軍の中のそれぞれの機能を専
門システム化したといわれる。
とくに秀吉は、戦場において土木工事をよくやった。長大な堤防を築いて
城の周りを囲み、足守川の水を一気に引き込んで備中高松城を水攻めにし
たことは有名である。戦争と土木建築工事は一体のものである。

源助が工事のみでいくさはしないというごまかしは、自衛隊海外派遣の際
の「後方支援」に似ているような気もした。
秀吉(柄本明)が源助の武功を讃えたように、工兵は重要な機能を担う兵
員であると思う。
posted by 読書人ジョーカー at 11:24| Comment(0) | 「功名が辻」関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月20日

「木曜島の夜会」司馬遼太郎

木曜島の夜会

明治の初め、年貢がいきなり金納になった。
農村の自給自足経済は混乱し、田畑を手放すものが続出したという。
貧乏な新国家のはじまりだった。

食えなくなって、海外に出て行く百姓もいた。南米への開拓移民などがそ
うである。
紀州あたりでは、てっとり早く金を稼ぐために、豪州まで貝を採りに行く
ことが流行った。
司馬遼太郎「木曜島の夜会」は、オーストラリア本土から25マイルほど離
れた木曜島(Thursday Island)の海に潜って、潜水病や鮫、人種差別
(白豪主義)などと闘いながら蝶貝を採った男たちの話である。

白蝶貝、黒蝶貝はヨーロッパの貴婦人たちの服を飾るボタンなどになった。
高値で取引されていた。だから、ダイバーになると、相当実入りがいい。
役場の職員の10倍以上の給金を稼ぐものもいたという。ただし、過酷すぎ
る仕事だった。
ダイバーは鎧のような潜水服の中に入って、異国の海に沈む。海上の小舟
からポンプで「えいやあ」を送ってもらいながら、ひねもす海の底を歩い
て、ひたすら貝を探すのである。
たとえば何尋という深さを超えると潜水病になることがわかっているが、
無理をする。
稼ぐためには、死のすぐ側まで行かなければならないのである。
実際に命を落とすものが続出した。
不思議なことに、こういう仕事は白人にも現地人にもできず、日本人が重
宝され、次第にダイバーの仕事を独占するようになったらしい。

親方(船主)は豪州白人、ドイツ人などだったという。
日本人で親方になるものは少なかったらしい。親方になれば、市場の動き
を読んだり、商人たちとの交渉ごとがあるし、資金繰りも考えなければな
らない。こういうのが面倒なのか、日本人は、ひたすら潜って貝を探した。
日本の国技である相撲の世界では、カネも金星(美人)も、すべては土俵
に埋まっているという。
ダイバーにとっては、すべてが海に眠っていた。
大金を掴んで故郷に帰り、御殿を建て、村一番の器量良しを嫁にした男も
いた。その噂が広がれば、豪州へ行く者がふえる。そしてまた多くの若者
が異国の海に沈んだ。

日本人の木曜島行きは、戦前頃まで続いていたらしい。
司馬遼太郎は、日本人ダイバーの生き残りである老人を訪ね、木曜島での
夜会に招待される。異国に根を下ろしたかにみえた日本人は「故郷忘じが
たく候」だった。
3キロ平米ほどの小さな島には、たくさんの若者たちを祀る慰霊塔と、荒
れ果てた日本人墓地があった。
posted by 読書人ジョーカー at 14:32| Comment(0) | 歴史・司馬遼関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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