はじめは説教をする吉兵衛(武田鉄矢)の顔で、次は湯に煙った困惑顔の
一豊(上川隆也)だった。
千代は、一豊が疲れを癒すための湯殿を、自分の手で磨いておきたかった
のかもしれない。
『功名が辻』第14回、「一番出世」より。
湯殿から離れたところに小さな釜があった。
「お湯加減は、いかがでございます?」
千代は、声を掛けながら、外の鉄鍋に沸かした湯を、柄杓ですくって樋に
注ぎ、湯殿のなかの湯槽へ流していた。ときどき熱い湯を足して、湯が冷
めないようにするのだろう。
あんな風呂は見たことがない。
五右衛門風呂、長州風呂といった、鋳鉄の釜に溜めた水を直接沸かす風呂
は、もう少しあとの時代に広まったのかもしれない。石川五右衛門は、安
土桃山時代の盗賊で、最後は釜茹での刑になった。史実かどうかは別にし
ても、それが五右衛門風呂の名の由来であることは有名である。
家に湯殿を造ることは、経済的に余裕ができた、という理由だけではなく、
織田家の序列による「格式」のようなものだったのかもしれない。武将た
ちは、屋敷の湯殿を接待に使ったといわれる。
もっとも高い「格式」は、茶会を催すことだった。信長が茶会を許したの
は、秀吉、光秀ら4人の武将のみといわれる。茶会はともかく、家に湯殿
があるかどうかは、女たちにとって、大騒ぎするほどの問題だった。
まるで昭和30〜40年代の、風呂のある家にあこがれた主婦たちのよう。
「隣に蔵が建てば、わしは腹が立つ」
戦国の世も高度成長期で、まわりはどんどん出世していく。他人の生活の
変化が気になって仕方がないのである。
「寝たいだけ 寝たからだ 湯にのばす」 山頭火
あせっても、どうにもならない。堀尾吉晴(生瀬勝久)のように、まずは
ゆったりと湯に浸かり、次の機会を待つのがいいのかもしれない。