2006年07月31日

玉の妖気

夫婦仲が悪いと、子は身を縮めながら嵐の過ぎるのを待っている。
夫婦仲が良すぎると、子はあきれ顔で笑っている。
巷間、バカップルといわれているようだが、一豊(上川隆也)と千代
(仲間由紀恵)のように子の前で甘えあうくらいの夫婦の方がいいのか
もしれない。

功名が辻、第30回「一城の主」。
康豊(玉木宏)が兄一豊のもとに帰参した。
光秀の娘玉も細川家に戻った。
秀吉の前で言上した細川幽斎によると、明智の娘には妙な妖気が漂って
いるという。
そういう坊主頭の幽斎の方が老獪そうで、妖怪じみていた気がした。
名前からして幽斎なのであるし。

秀吉は手当たり次第に女をあさり、しまいには大名の女房まで無理矢理
手込めにしたともいわれる。
幽斎は玉を秀吉から守るために妖気を持ち出したのかもしれないし、た
んに玉が疎ましかっただけなのかもしれない。
秀吉は、むしろ妖気を放つ女に興味をしめしたようだった。

「君子、怪力乱神を語らず」

秀吉は聖人君子ではない。
しかし、為政者も怪異を信じず、暴力に頼らず、淫らな行為をせず、妖
しげな宗教には関わってはならず、だろう。
秀吉は怪異を恐れず、宗教にも凝らないが、力にまかせて淫らな行為を
続けたらしい。
そのため、大坂城そのものが次第に人の怨念に満ちてくる。
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2006年07月24日

猿の落雁

アヤメ、菊などの花々を可愛らしくお干菓子に!〜花と彩〜(大)和三盆糖を使った高級和菓子

一豊(上川隆也)が長浜城主となった。
ただし、一国ではなく一城のあるじだった。
死んだ吉兵衛も「ご功名をあげ国持ち大名になりなされ」 という言葉
を遺していた。
まだ先はながい。

史料によると、この時期は引っ越しであわただしい。
天正12年、近江長浜城主5千石
天正13年、若狭高浜城主2万石
同年8月、近江に戻ってふたたび長浜城主3万石となっている。
しかし、11月の天正大地震(長濱大地震)で城は半壊、よね姫圧死。

功名が辻第29回「家康恐るべし」。
人を食ったような猿の落雁が面白かった。
一豊、一氏、吉晴の三人で猿の落雁を食いながら、秀吉の天下取りの構
想をあれこれ予想していた。
落雁は、秀吉と家康の知恵比べが読めない一豊の甘さにひっかけられた。

家康は猿の落雁を見つめ、女に背中をもませながら次の一手を思案して
いたが、信雄が秀吉と和睦したという一報が入り、さすがに仰天した。
このあたりで家康は自身の天下取りを保留にし、いかに自分を高く売る
かということに、戦略を変化させたのかもしれない。
家康は無理をしない。秀次の裏をかいて一戦に勝利しても深追いはしな
かった。

ドラマをみて落雁が食いたくなったが、記憶をたぐるとこの干菓子には
あまりいい思い出がない。
お盆の時期、落雁は仏壇の中に数日おかれていた。
仏壇から降ろして生きた人間の口に入るころは、線香の匂いが十分に染
みついていた。
落雁は「仏さまの味」だったのである。
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2006年07月22日

空海の風景

空海の風景〈上巻〉

文明は外からやってくる。
文明の文物を初めて学ぶ人は、外国語をまず修得しなければならない。
明治の初めに生まれた工部大学校、東京医学校では外国人教授による講
義が主体で、教科書もすべて外国語だった。このため本科の専門教育に
入る前に、予科では英語やドイツ語を徹底的に叩き込まれたという。

空海の時代、文明は中国からやってきた。あるいは行って持ち帰ってきた。
空海は少年の頃から宇宙の真理とかいうものに興味をもっていたらしい。
そのために密教を目標にしたという。

『空海の風景』(上下巻 司馬遼太郎・中央公論新社)では空海という不
思議な人間と周囲の風景を描きながら、その思想についての独自の解釈が
展開される。

空海は当時の日本にひとつしかなかった大学寮に入学した。
「論語」「毛詩」などの経書、史書を学び、ついで中国語(唐代)の音韻
も覚えた。やがて『三経指帰』という書を著し儒教と決別、大学を中退し
山林の行者をしていたとされる謎の七年を過ごす。

「虚空蔵菩薩求聞持聡明法」の秘密がこの時代にあるのではないかと思う。
この法を修めれば記憶力が増大し、膨大な量の経典すらもすべて頭に入れ
ることができるという。いわば宇宙真理に近づく第一の段階である。

天才的な語学力のもちぬしだったらしい。
のちに遣唐使の一行に加わって大陸へむかったときに海が荒れ福州に漂着
した。福州の観察使に文書でもって報告したが、遣唐使の藤原葛野麿ほか、
どの学僧、学者の漢文も通じず、日本国の正使であることを疑われ、ほっ
とかれた。
困り果てた藤原葛野麿は当時無名の留学生だった空海に頼んでみた。現地
人を相手になにやらしゃべる姿をだれかがみたのかもしれないという。
空海の漢文を一読した福州の観察使閻済美はその名文に驚嘆したらしい。
一行はもてなされ帝都長安へと案内された。
ところが空海だけは残された。
地方長官で高名な学者だった馬総が空海の詞藻の美しさに驚き、詩酒の席
にひきまわされたのかもしれないという。
馬総をして、おまえほどの詞藻をもった人間は中国人でもめずらしい、と
いう意味の詩を送らせたという。

空海は留学二十年の予定で入唐したが二年足らずで一気に完結させた。
長安の都へ入ると、インド人僧のもとでサンスクリット語とインド哲学を
学んだ。ついでに韓方明などから書も学んだとされる。「弘法も筆の誤り」
という諺があるが、書でも日本最高の能筆家のひとりになる。

空海は青竜寺に密教の正統者である恵果を訪ねた。
恵果は高齢だった。密教を相続させる天才の到来を待ち望んでいた。空海
の噂は伝わっていた。
恵果は一見して空海の稟質さをさとり膨大な経巻、法具、仏画、仏具、仏
像をふくむ密教のすべてを授けたという。
密教の正統は唐から異国の僧空海に移った。
空海はその論理的能力でもって密教の土俗的な夾雑物をとりのぞき思想と
して体系化したという。

「かれは奈良仏教にみられるような解脱だけをもって修行の目的にする教
えはやりきれなかったにちがいない。解脱とは人間が本然としてあたえら
れている欲望を否定する。
その至高の自主的自由の境地を涅槃とよぶ。多くは煩悩のもとである身体
が離散したときに涅槃に入る。要するに死である。死をよろこぶ教えとは
どういうものだろう。
空海は生命や煩悩をありのまま肯定したい体質の人間だったにちがいない。」

高野山の奥の院ではいまも空海その人が黙座しているという。
食事と衣服の着替えの世話をするのが「黄衣の人」で、この僧は管長と同
格ともいわれる。
「黄衣の人」以外は御廟の中の様子をだれも知ることができないらしい。
posted by 読書人ジョーカー at 10:55| Comment(0) | 歴史・司馬遼関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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