2006年10月23日

「算学武士道」

1.gif


日本の算学、つまり和算は中国から伝わったものが独自に発展し、江戸
の頃には微分、積分学にまで到達していたらしい。微積分の概念の発見
者はライプニッツ、あるいはニュートンとされるが、和算関流の創始者
である関孝和も、この二人とほぼ同時代の人物である。

関孝和はライプニッツよりも先に行列式を発見したともいわれる。
西洋では数学は、ニュートン力学などの物理学とも密接に結びつき、近
代科学を支えるものとして活用されてきたが、日本の和算は算師たちだ
けの不思議な知的遊戯となっていたらしい。
橋を架けたり、城を造るための実用算術は必要としても、それを超える
高等算学など、無用の趣味的な学問にすぎなかったそうなのである。

小野寺公二「算学武士道」(光文社時代小説文庫)は、算学に生きた武
士たちの悲哀のようなもを描いた短篇集である。

算学師の世界には、しきたりがあった。
自ら難問を考え出し、解法を見つけた算師は、その問題と答えを額にし
て絵馬のように神社に奉納する。あるいは問いのみを板に書き記し、他
の算師たちに解いてみよと呼びかけたりする。見事解法を見つけたもの
は、算師としての名が上がる。

世の原理のようなものを自ら発見し、算額として神に奉納する。

算学師たちにとっては、こうした行為そのものが、何ものにも換えがた
い喜びだったという。
また評判が高まれば算学道場の教授の職を得たり、公儀や諸藩の役を貰っ
たりもできるのである。

表題作の「算学武士道」は、老いた父とその介護に明け暮れるの母を持
つ貧乏侍の話。嫁の来てもなく、算学を唯一の生き甲斐としていた。
生活に追われているため、江戸に修業に行けなかった。そうした中、た
いして才能もなかった後輩に、難問の解法を先に発見される。

「百五十年後の仇討」は、現代と江戸の数学が交差する話。高校の数学
教師だった男が、寺の住職から古い算額の整理を依頼され、算学勝負に
負けた自分の四代前の算学者のことを知る。そして先祖の無念を、現代
数学でもって晴らす。

「自然は数学の言葉で書かれている」

とガリレオ・ガリレイは言ったらしいが、江戸では高等数学が自然学(科学)
と結びつくことはあまりなかったようだ。あくまで抽象度の高い純粋数
学のみが深化していたのかもしれない。
それだけに、人ではなく、神に奉納されていたという話もおもしろい。
posted by 読書人ジョーカー at 14:17| Comment(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月13日

ドビュッシーと松風

世界のなかの日本―十六世紀まで遡って見る

ドナルド・キーンは、コロンビア大学で教授・名誉教授として長く教鞭
をとっている日本文学者だが、1年の半分以上は東京の自宅にいるそう
である。
勲二等旭日重光賞、菊池寛賞などを受賞し、2002年には文化功労者に
選ばれている。文化勲章もありえるのかもしれない。外国人の文化勲章
受章者にはアポロ11号の飛行士たちがいるが、文化功労者顕彰や宮中伝
達式もない緊急特別の受賞だったようである。

ドナルド・キーンと司馬遼太郎はよく対談していた。
「世界のなかの日本―十六世紀まで遡って見る」司馬遼太郎/ドナルド・
キーン(中公文庫)は、1990年の京都での対談をまとめたものとある。

「はっきりしない言葉はフランス語ではない、といいますが、日本語の
場合は、はっきりしている言葉は日本語ではないといえます。」
(キーン・162ページ)

話は、日本語と外国語の違いから、江戸の鎖国、儒学と実学、神道論、
近松、漱石などの文学、近世の美術などへと自在に飛ぶが、もっとも面
白く感じたものは「懐かしさ」と題された司馬遼太郎のあとがきにあった。

ドナルド・キーンは世阿弥の謡曲「松風」を、文学として最高のものと
信じ、読むたびに感激するという。コロンビア大学の学生たちとともに
読んだときも、感激しない学生はいなかったという。
しかし、実際の能舞台を観て失望したらしい。
「じつは読み込むことによってできあがっていたキーンさんのイメージ
の方が、現実の能舞台よりも華麗で幽玄だったに違いない」と司馬はいう。

「もっともそのイメージのなかでの音楽は、小鼓、大鼓、笛ではなく、
ドビッシーのような音楽だったそうだが。」

内田百聞の短篇をもとに幻想譚を描いた鈴木清順監督の「ツィゴイネル
ワイゼン」を思い出した。
和の陰影の中に、サラサーテの音楽がすすり泣く映画である。

「松風」は、貴人の行平を一途に想い続ける海女の、哀しくおろかな恋
を描く夢幻能。

月はひとつ 影はふたつ 満つ潮の
夜の車に月を載せて 憂しとも思はぬ 潮路かなや

ドビュッシーの「松風」があるとすれば、さらなる夢幻界へと誘われるの
かもしれない。
posted by 読書人ジョーカー at 13:04| Comment(0) | 歴史・司馬遼関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月04日

信楽狸

信楽焼 シーソー狸貯金箱

「殿下の息がくそうございまする」
淀はふくれた顔でそういった。
秀吉の死因は胃癌ともいわれる。
胃癌は強い口臭を発生させるらしい。
末期の秀吉には実際に悪臭があったのかもしれない。
「はよ、逝きなされ」
淀はさらに呪いの言葉を吐いて、秀吉の死期を早めていた。
女の妖気がただよう演技だった。
功名が辻、第39回「秀吉死す」

「わしはもはや実の子はのぞまん」
一豊(上川隆也)はそう宣言した。
千代への優しさなのだろうが、あるいは側室に魂を抜かれたような秀吉
の姿を見て、思うところがあったのかもしれない。
秀吉は、死後の権力に恋々とすることで、家を乱したような気がした。

秀吉が逝くことで、恋こがれた天下人となる機会が家康にやってきた。
突き上げてくるようなあまりの嬉しさ、興奮、ある種の不安が綯い交ぜ
となり、呆けた狸のようにダラリとしたのかもしれない。
人間信楽狸だった。
性格俳優という言葉があるが、西田敏行は体格俳優とでもいうべきか。
演技力だけでは、信楽狸にはならないだろう。
posted by 読書人ジョーカー at 18:02| Comment(0) | 「功名が辻」関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。