明治の初め、年貢がいきなり金納になった。
農村の自給自足経済は混乱し、田畑を手放すものが続出したという。
貧乏な新国家のはじまりだった。
食えなくなって、海外に出て行く百姓もいた。南米への開拓移民などがそ
うである。
紀州あたりでは、てっとり早く金を稼ぐために、豪州まで貝を採りに行く
ことが流行った。
司馬遼太郎「木曜島の夜会」は、オーストラリア本土から25マイルほど離
れた木曜島(Thursday Island)の海に潜って、潜水病や鮫、人種差別
(白豪主義)などと闘いながら蝶貝を採った男たちの話である。
白蝶貝、黒蝶貝はヨーロッパの貴婦人たちの服を飾るボタンなどになった。
高値で取引されていた。だから、ダイバーになると、相当実入りがいい。
役場の職員の10倍以上の給金を稼ぐものもいたという。ただし、過酷すぎ
る仕事だった。
ダイバーは鎧のような潜水服の中に入って、異国の海に沈む。海上の小舟
からポンプで「えいやあ」を送ってもらいながら、ひねもす海の底を歩い
て、ひたすら貝を探すのである。
たとえば何尋という深さを超えると潜水病になることがわかっているが、
無理をする。
稼ぐためには、死のすぐ側まで行かなければならないのである。
実際に命を落とすものが続出した。
不思議なことに、こういう仕事は白人にも現地人にもできず、日本人が重
宝され、次第にダイバーの仕事を独占するようになったらしい。
親方(船主)は豪州白人、ドイツ人などだったという。
日本人で親方になるものは少なかったらしい。親方になれば、市場の動き
を読んだり、商人たちとの交渉ごとがあるし、資金繰りも考えなければな
らない。こういうのが面倒なのか、日本人は、ひたすら潜って貝を探した。
日本の国技である相撲の世界では、カネも金星(美人)も、すべては土俵
に埋まっているという。
ダイバーにとっては、すべてが海に眠っていた。
大金を掴んで故郷に帰り、御殿を建て、村一番の器量良しを嫁にした男も
いた。その噂が広がれば、豪州へ行く者がふえる。そしてまた多くの若者
が異国の海に沈んだ。
日本人の木曜島行きは、戦前頃まで続いていたらしい。
司馬遼太郎は、日本人ダイバーの生き残りである老人を訪ね、木曜島での
夜会に招待される。異国に根を下ろしたかにみえた日本人は「故郷忘じが
たく候」だった。
3キロ平米ほどの小さな島には、たくさんの若者たちを祀る慰霊塔と、荒
れ果てた日本人墓地があった。