千代(仲間由紀恵)は、その子を抱いて離さなかった。
一豊(上川隆也)は「家督は継がせない」というが、山内家で育てるこ
とを認めた。
子は拾(ひろい)と名づけられた。
功名が辻、第34回「聚楽第行幸 」
「捨て子は強い子になる」
という言い伝えが古くからあったらしい。
そのため、わざと拾や捨の字を使う場合もあった。
秀吉も、淀殿との間に生まれた男児に拾という名をつけている。
のちの右大臣豊臣秀頼である。
秀頼の前に、もうひとり男児があったらしい。
こちらの方は、お捨(鶴松)、つまり捨てられたという意味の名をつけ
られたが、育たなかったようだ。鶴松の死後、2年のちに秀頼が生まれ
ている。
秀吉は、ようやく授かった男児が丈夫に育つよう、城の外にいったん捨
て、ふたたび拾い上げるという儀式じみたこともやったといわれる。
そのせいかどうか、秀頼は大きく育った。
慶長17年、19歳の秀頼に謁見したイスパニア使節セバスチャン・ビス
カイノの記録によると、六尺五寸を超えるという、とんでもない巨漢だっ
たようだ。身長は2メートルに近い。しかも相当な肥満体だったらしい。
千代と一豊の拾は、出家し、妙心寺大通院二世湘南宗化となる。
千代のために、大通院に見性閣を建立した。