座敷で書に埋もれていた。
何を読んでいたのかはわからない。
国を治めるため、人智を知るための書のたぐいかもしれない。
「武門と学問、両門がそろって初めて王道が開ける」
という家康の言葉を、一豊は秀次の側で聞いていた。
当時の学問とは何のことだかよくわからない。
四書(論語、大学、中庸、孟子)、五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)
が基本となるのかもしれない。
四書五経には経世済民(経済)や治国、平天下の術のことが深く記され
ているようだ。
「経済」という言葉には、「世を正しく治め、苦しむ民を救う」という
真義があるのだろうが、いまではカネのことばかりをイメージさせる言
葉になっている。
一豊も槍働きだけではなく、大名として掛川築城や町づくり、治世のこ
とを勉強しなければならない。
功名が辻、第36回「豊臣の子」。
秀吉が、大明国に攻め入ると言い出した。
ドラマなどでは、子をなくした悲しみのため、狂ったような暴挙にでた
という描かれ方もされる。
「天下安寧のためには、いくさは続けなければならない」
家康に与えた関八州は、豊臣の直轄領の石高を上回っていたともいわれる。
天下を獲るために大盤振る舞いを続けた秀吉には、もう与える領地がな
くなっていた。
朝鮮出兵は、ふくれあがった諸大名の論功行賞への不満を解消するため、
異国に領地を求めたものとする説もある。