日本の算学、つまり和算は中国から伝わったものが独自に発展し、江戸
の頃には微分、積分学にまで到達していたらしい。微積分の概念の発見
者はライプニッツ、あるいはニュートンとされるが、和算関流の創始者
である関孝和も、この二人とほぼ同時代の人物である。
関孝和はライプニッツよりも先に行列式を発見したともいわれる。
西洋では数学は、ニュートン力学などの物理学とも密接に結びつき、近
代科学を支えるものとして活用されてきたが、日本の和算は算師たちだ
けの不思議な知的遊戯となっていたらしい。
橋を架けたり、城を造るための実用算術は必要としても、それを超える
高等算学など、無用の趣味的な学問にすぎなかったそうなのである。
小野寺公二「算学武士道」(光文社時代小説文庫)は、算学に生きた武
士たちの悲哀のようなもを描いた短篇集である。
算学師の世界には、しきたりがあった。
自ら難問を考え出し、解法を見つけた算師は、その問題と答えを額にし
て絵馬のように神社に奉納する。あるいは問いのみを板に書き記し、他
の算師たちに解いてみよと呼びかけたりする。見事解法を見つけたもの
は、算師としての名が上がる。
世の原理のようなものを自ら発見し、算額として神に奉納する。
算学師たちにとっては、こうした行為そのものが、何ものにも換えがた
い喜びだったという。
また評判が高まれば算学道場の教授の職を得たり、公儀や諸藩の役を貰っ
たりもできるのである。
表題作の「算学武士道」は、老いた父とその介護に明け暮れるの母を持
つ貧乏侍の話。嫁の来てもなく、算学を唯一の生き甲斐としていた。
生活に追われているため、江戸に修業に行けなかった。そうした中、た
いして才能もなかった後輩に、難問の解法を先に発見される。
「百五十年後の仇討」は、現代と江戸の数学が交差する話。高校の数学
教師だった男が、寺の住職から古い算額の整理を依頼され、算学勝負に
負けた自分の四代前の算学者のことを知る。そして先祖の無念を、現代
数学でもって晴らす。
「自然は数学の言葉で書かれている」
とガリレオ・ガリレイは言ったらしいが、江戸では高等数学が自然学(科学)
と結びつくことはあまりなかったようだ。あくまで抽象度の高い純粋数
学のみが深化していたのかもしれない。
それだけに、人ではなく、神に奉納されていたという話もおもしろい。