2006年10月13日

ドビュッシーと松風

世界のなかの日本―十六世紀まで遡って見る

ドナルド・キーンは、コロンビア大学で教授・名誉教授として長く教鞭
をとっている日本文学者だが、1年の半分以上は東京の自宅にいるそう
である。
勲二等旭日重光賞、菊池寛賞などを受賞し、2002年には文化功労者に
選ばれている。文化勲章もありえるのかもしれない。外国人の文化勲章
受章者にはアポロ11号の飛行士たちがいるが、文化功労者顕彰や宮中伝
達式もない緊急特別の受賞だったようである。

ドナルド・キーンと司馬遼太郎はよく対談していた。
「世界のなかの日本―十六世紀まで遡って見る」司馬遼太郎/ドナルド・
キーン(中公文庫)は、1990年の京都での対談をまとめたものとある。

「はっきりしない言葉はフランス語ではない、といいますが、日本語の
場合は、はっきりしている言葉は日本語ではないといえます。」
(キーン・162ページ)

話は、日本語と外国語の違いから、江戸の鎖国、儒学と実学、神道論、
近松、漱石などの文学、近世の美術などへと自在に飛ぶが、もっとも面
白く感じたものは「懐かしさ」と題された司馬遼太郎のあとがきにあった。

ドナルド・キーンは世阿弥の謡曲「松風」を、文学として最高のものと
信じ、読むたびに感激するという。コロンビア大学の学生たちとともに
読んだときも、感激しない学生はいなかったという。
しかし、実際の能舞台を観て失望したらしい。
「じつは読み込むことによってできあがっていたキーンさんのイメージ
の方が、現実の能舞台よりも華麗で幽玄だったに違いない」と司馬はいう。

「もっともそのイメージのなかでの音楽は、小鼓、大鼓、笛ではなく、
ドビッシーのような音楽だったそうだが。」

内田百聞の短篇をもとに幻想譚を描いた鈴木清順監督の「ツィゴイネル
ワイゼン」を思い出した。
和の陰影の中に、サラサーテの音楽がすすり泣く映画である。

「松風」は、貴人の行平を一途に想い続ける海女の、哀しくおろかな恋
を描く夢幻能。

月はひとつ 影はふたつ 満つ潮の
夜の車に月を載せて 憂しとも思はぬ 潮路かなや

ドビュッシーの「松風」があるとすれば、さらなる夢幻界へと誘われるの
かもしれない。
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2006年07月22日

空海の風景

空海の風景〈上巻〉

文明は外からやってくる。
文明の文物を初めて学ぶ人は、外国語をまず修得しなければならない。
明治の初めに生まれた工部大学校、東京医学校では外国人教授による講
義が主体で、教科書もすべて外国語だった。このため本科の専門教育に
入る前に、予科では英語やドイツ語を徹底的に叩き込まれたという。

空海の時代、文明は中国からやってきた。あるいは行って持ち帰ってきた。
空海は少年の頃から宇宙の真理とかいうものに興味をもっていたらしい。
そのために密教を目標にしたという。

『空海の風景』(上下巻 司馬遼太郎・中央公論新社)では空海という不
思議な人間と周囲の風景を描きながら、その思想についての独自の解釈が
展開される。

空海は当時の日本にひとつしかなかった大学寮に入学した。
「論語」「毛詩」などの経書、史書を学び、ついで中国語(唐代)の音韻
も覚えた。やがて『三経指帰』という書を著し儒教と決別、大学を中退し
山林の行者をしていたとされる謎の七年を過ごす。

「虚空蔵菩薩求聞持聡明法」の秘密がこの時代にあるのではないかと思う。
この法を修めれば記憶力が増大し、膨大な量の経典すらもすべて頭に入れ
ることができるという。いわば宇宙真理に近づく第一の段階である。

天才的な語学力のもちぬしだったらしい。
のちに遣唐使の一行に加わって大陸へむかったときに海が荒れ福州に漂着
した。福州の観察使に文書でもって報告したが、遣唐使の藤原葛野麿ほか、
どの学僧、学者の漢文も通じず、日本国の正使であることを疑われ、ほっ
とかれた。
困り果てた藤原葛野麿は当時無名の留学生だった空海に頼んでみた。現地
人を相手になにやらしゃべる姿をだれかがみたのかもしれないという。
空海の漢文を一読した福州の観察使閻済美はその名文に驚嘆したらしい。
一行はもてなされ帝都長安へと案内された。
ところが空海だけは残された。
地方長官で高名な学者だった馬総が空海の詞藻の美しさに驚き、詩酒の席
にひきまわされたのかもしれないという。
馬総をして、おまえほどの詞藻をもった人間は中国人でもめずらしい、と
いう意味の詩を送らせたという。

空海は留学二十年の予定で入唐したが二年足らずで一気に完結させた。
長安の都へ入ると、インド人僧のもとでサンスクリット語とインド哲学を
学んだ。ついでに韓方明などから書も学んだとされる。「弘法も筆の誤り」
という諺があるが、書でも日本最高の能筆家のひとりになる。

空海は青竜寺に密教の正統者である恵果を訪ねた。
恵果は高齢だった。密教を相続させる天才の到来を待ち望んでいた。空海
の噂は伝わっていた。
恵果は一見して空海の稟質さをさとり膨大な経巻、法具、仏画、仏具、仏
像をふくむ密教のすべてを授けたという。
密教の正統は唐から異国の僧空海に移った。
空海はその論理的能力でもって密教の土俗的な夾雑物をとりのぞき思想と
して体系化したという。

「かれは奈良仏教にみられるような解脱だけをもって修行の目的にする教
えはやりきれなかったにちがいない。解脱とは人間が本然としてあたえら
れている欲望を否定する。
その至高の自主的自由の境地を涅槃とよぶ。多くは煩悩のもとである身体
が離散したときに涅槃に入る。要するに死である。死をよろこぶ教えとは
どういうものだろう。
空海は生命や煩悩をありのまま肯定したい体質の人間だったにちがいない。」

高野山の奥の院ではいまも空海その人が黙座しているという。
食事と衣服の着替えの世話をするのが「黄衣の人」で、この僧は管長と同
格ともいわれる。
「黄衣の人」以外は御廟の中の様子をだれも知ることができないらしい。
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2006年04月28日

細川ガラシャのこと

戦国の女たち―司馬遼太郎・傑作短篇選

「胡桃に酒」-司馬遼太郎傑作短篇選・戦国の女たち

明智光秀の三女たまの美しさは、日本書紀に出てくる謎の美女、衣通姫
(そとおりひめ)にたとえられる。
容姿絶妙にして比ぶものなし その艶色は衣を徹りて照れり。
美しさが衣から透けて光り輝くほどだったという。
たまの悲劇は多くのひとが知っている。嫁に行かない方がいいのではな
いかと思わせるが、そうはいかない。
「嫁御料人は、丹波からくる」
細川幽斉(藤孝)の長子忠興に配されることが決まった。
「若君は、くるい者ではあるまいか」
忠興は、ある種の異常人として描かれている。
病的な負けず嫌いの激情家で、行動もふつうではなく、たまを人形のよ
うに扱う。いつ壊されるのかわからない。

忠興の悋気は尋常ではなかった。
「奥にはいかなる場合でも男を入れてはならぬ」とした。
ある日、ちらりとたまの姿を見ただけの庭師の首を刎ねた。
またある日、見たのかどうか定かでない屋根師の首をその場でたたきお
とした。
たまの心は白くなった。

不幸は続く。父光秀が「本能寺の変」を起こし、謀反人として秀吉に滅
ぼされた。
「悲しむ者は幸福なり」
空白の心に、キリシタンの教えが染み込んだのかもしれない。
たまは、洗礼をうけ細川伽羅奢(ガラシャ)夫人となった。
細川屋敷に棄児たちをひきいれ、慈しむことで救われるかに思われた。
しかし「関ヶ原」の前夜、忠興の病的な精神が、ガラシャに最後の不幸
を与えた。
忠興を狂わせたのは、ガラシャの美しさだったのか、あるいは聡明さだっ
たのか。

「胡桃に酒」とは、鰻に梅干し、蟹に柿と同じような合食禁のこと。
司馬は、この夫婦の関係を、食い合わせの悪さにたとえたのかもしれない。
posted by 読書人ジョーカー at 16:45| Comment(0) | 歴史・司馬遼関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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