2006年04月20日

「木曜島の夜会」司馬遼太郎

木曜島の夜会

明治の初め、年貢がいきなり金納になった。
農村の自給自足経済は混乱し、田畑を手放すものが続出したという。
貧乏な新国家のはじまりだった。

食えなくなって、海外に出て行く百姓もいた。南米への開拓移民などがそ
うである。
紀州あたりでは、てっとり早く金を稼ぐために、豪州まで貝を採りに行く
ことが流行った。
司馬遼太郎「木曜島の夜会」は、オーストラリア本土から25マイルほど離
れた木曜島(Thursday Island)の海に潜って、潜水病や鮫、人種差別
(白豪主義)などと闘いながら蝶貝を採った男たちの話である。

白蝶貝、黒蝶貝はヨーロッパの貴婦人たちの服を飾るボタンなどになった。
高値で取引されていた。だから、ダイバーになると、相当実入りがいい。
役場の職員の10倍以上の給金を稼ぐものもいたという。ただし、過酷すぎ
る仕事だった。
ダイバーは鎧のような潜水服の中に入って、異国の海に沈む。海上の小舟
からポンプで「えいやあ」を送ってもらいながら、ひねもす海の底を歩い
て、ひたすら貝を探すのである。
たとえば何尋という深さを超えると潜水病になることがわかっているが、
無理をする。
稼ぐためには、死のすぐ側まで行かなければならないのである。
実際に命を落とすものが続出した。
不思議なことに、こういう仕事は白人にも現地人にもできず、日本人が重
宝され、次第にダイバーの仕事を独占するようになったらしい。

親方(船主)は豪州白人、ドイツ人などだったという。
日本人で親方になるものは少なかったらしい。親方になれば、市場の動き
を読んだり、商人たちとの交渉ごとがあるし、資金繰りも考えなければな
らない。こういうのが面倒なのか、日本人は、ひたすら潜って貝を探した。
日本の国技である相撲の世界では、カネも金星(美人)も、すべては土俵
に埋まっているという。
ダイバーにとっては、すべてが海に眠っていた。
大金を掴んで故郷に帰り、御殿を建て、村一番の器量良しを嫁にした男も
いた。その噂が広がれば、豪州へ行く者がふえる。そしてまた多くの若者
が異国の海に沈んだ。

日本人の木曜島行きは、戦前頃まで続いていたらしい。
司馬遼太郎は、日本人ダイバーの生き残りである老人を訪ね、木曜島での
夜会に招待される。異国に根を下ろしたかにみえた日本人は「故郷忘じが
たく候」だった。
3キロ平米ほどの小さな島には、たくさんの若者たちを祀る慰霊塔と、荒
れ果てた日本人墓地があった。
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2006年04月02日

幕末、一足一刀の間合い

幕末の志士たちには、剣術の達人が多い。
坂本龍馬は北辰一刀流の桶町・千葉道場、桂小五郎は神道無念流の斉藤弥
九郎道場、武市半平太は鏡神明智流の桃井春蔵道場で、それぞれ塾頭まで
つとめている。いずれも門弟千人を超える名門道場だった。

下級武士が立身するためには、剣術をやるか、学問をやるかの、どちらか
しかなかったらしい。
桂小五郎は、養子として桂家を継いだため、家禄を減らされていたという。
坂本龍馬は次男のため、継ぐ家がなかった。剣術で生計を立てようとした。
時代が沸騰していなければ、ふたりとも剣道の先生として平穏に人生を終
えていたかもしれない。

旗本小普請組の倅だった勝海舟は、蘭学を深め、咸臨丸の艦長に抜擢され
たが、剣術も熱心にやったという。幕末の三剣士といわれた島田虎之助に
学び、直心影流の免許皆伝をゆるされている。
西郷隆盛、大久保利通などの薩摩藩士たちは、一太刀で相手を倒すことを
心得とする示現流で胆力を磨いていた。

剣術は、人と人が異様に張りつめた空気の中で対峙するところがおもしろ
い。剣術修業で身につけた精神力こそ、幕末という時代を動かしたのでは
ないかとも想う。

薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城など、すべて一触即発の空気があった。
振動する空気の中、人と人が、一足一刀の間合いで対峙した。踏み込めば、
互いに一瞬で相手を打突できる危険さがあった。
自分の命だけではない。すべての日本人の運命が背中にのしかかっていた。
並の人間なら震え上がったかもしれない。

膝詰め談判で相手が押してくる。裂帛(れっぱく)の気合いを込めて押し
返す。相手の呼吸を読み、ときに虚を突き、ときに無言の攻撃を仕掛ける。
決裂すれば、やるぞと脅す。最後は理屈ではなく、精神の力がものをいう。
土壇場での胆力こそ、もっとも大事なものかもしれない。
posted by 読書人ジョーカー at 07:57| Comment(0) | 歴史・司馬遼関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月23日

上忍と下忍の違い

司馬遼太郎が忍者について調べているときに、ある史料に上忍と下忍とい
うものが記されているのをみつけたという。史料によると、上忍は術にす
ぐれた有能な忍びで、下忍はそうではないもののことであったらしい。
ところが司馬は、「梟の城」で上忍と下忍を人間の階級分けとして使って
いる。
上忍を地侍(小領主)、下忍を小作人とし、忍者集団の中での身分とした
のである。
のちに自身でも、「少し独創的にすぎたか」と述懐している。

こうした社会構図を小説の中に持ち込むと、登場人物の行動のモチベーショ
ンが明確になってくるのかもしれない。
上忍である葛籠重蔵(映画版・中井貴一)は、時代がどう変わろうと、独
立した職能者である忍者としての道を生きる。
これに対し、下忍の風間五平〈上川隆也)は、忍びを捨て、武士として主君
に仕えることで、身分の上昇をはかろうとする。
利の対立なら和解もあるかもしれないが、身分社会の怨念がそこにくわわ
ると、ほふりあうしかなくなる。忍びとして秀吉を狙う重蔵と、守りの側
にたつ五平は術を駆使して激突する。

「竜馬がゆく」における、土佐の上士と郷士という身分上の対立も、物語
上、重要な構図のひとつになっていると思う。
「竜馬がゆく」では、のちに上士である板垣退助や後藤象二郎が、みずか
ら体制をひっくり返すために動きはじめ、維新の原動力となっていくこと
で、読者にある種のカタルシスをもたらす。

忍者など、職能に生きるひとたちは、職にのみ忠実で、誇り高い。
服部半蔵正就は、徳川の旗本として伊賀同心を率いたが、彼らの誇りを傷
つけたため、乱を起こされ、服部家は改易となっている。
忍びの集団とは、身につけた技能だけがものをいう、それぞれが自立した、
誇り高い集団ではなかったのかと思う。
posted by 読書人ジョーカー at 11:42| Comment(0) | 歴史・司馬遼関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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