比叡山延暦寺は、近江をはじめ、尾張、美濃、三河、山城、筑前など、全国
に広大な荘園領を持っていたし、本山は要塞化され、僧兵によって固められ
ていた。おまけに政治力もあった。
さらに近江は、延暦寺、園城寺などの荘園市の中心ともいえた。商人は塩座・
紙座などの座という既成組織に入らなければ商売ができなかった。
楽市楽座をすすめる信長とは、経済政策でも対立していた。
また信長の「天下布武」の印には、じぶんが天下を獲るという宣言だけでは
なく、武士による政治支配という意味も込められていたらしい。
そのためには、中世という古きバケモノどもをすべて退治しなければならな
かった。
この点、延暦寺の僧侶たちは、気づいていたのかもしれない。
永遠に相容れない間柄であることに。
いちどは信長から和議の申し入れがあったが、結局は激突することになる。
延暦寺は政治的存在だったけど、「仏」というぶ厚い精神の要塞に守られ、
手出しができなかった。信長の視点からみると、たまったものではなかった
のだろう。
信長の比叡山焼き討ちのインパクトは、都の朝廷、貴族、全国の戦国大名に
響きわたり、彼らを震え上がらせたが、同時にほふりあうしかない敵もつくっ
た。最後の敵となる光秀は、中世を背負った古典的教養人だったという。
ところで、信長の「延暦寺焼き討ち」について、滋賀県教育委員会による発
掘調査では、充分な科学的証拠が出なかったらしい。ある種の史料にあるよ
うな、大規模なものではなかったのだろう。信長が世間に与えたインパクト
がよほど大きく、人に伝わりながら、巨大な噂へと成長していったのかもし
れない。