2006年03月11日

かりそめの恋

「会津松平家というのは、ほんのかりそめな恋から出発している」
                
                 -司馬遼太郎『王城の護衛者』より

jk.gif二代将軍秀忠は、かなりの恐妻家だったらしい。
その将軍が、生涯にいちどだけ浮気をしたという。

女は秀忠の子を身籠もった。
御台所であるお江(おごう)*の目にとまらないよう、城のそとで産まさ
れ、子は養子にだされた。
が、その子はのちに異母兄、家光によって大名に引き立てられた。
会津二十三万石の藩祖、松平(保科)正之である。
正之は、三代将軍である兄に恩義を感じた。
このため、会津には正之の家訓として「将軍家への忠誠第一」が残った。
そのことが二百数十年後の会津藩に苦悩をあたえ白虎隊の悲劇をまねいた。

「功名が辻」第9回放送予告編では千代(仲間由紀恵)が一豊(上川隆也)
の浮気の告白を聞いて家をとびだしていたようだが、とびだすかどうかは
べつとしても、戦国の頃だって、人間の悋気には変わりがないだろう。
寧々は秀吉の女癖のわるさに腹をたて、信長に直訴状までだして、旦那を
はげしく責めている。のちに豊臣家は、寧々と茶々、女のたたかいで滅び
たびたといえなくもない。

一豊と千代のあいだに子はできなかったが、一豊は生涯側室を持たなかっ
たといわれる。

鎌倉の頃、六波羅探題をつとめた北条重時は「妻はひとりにせよ」とう家
訓を残している。
よくよく人柄を見極めてひとりの妻をえらべば、あとはいらない。側室を
おおぜいおけば、妻の嫉妬がつもりにつもって、家がおかしくなる。
男子がことをなしとげるには、家がやすらかであったほうがいいというこ
とらしい。

*秀忠の正室お江は、浅井長政とお市の三女で、信長の姪にあたる。
姉は秀吉側室となる淀殿。
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2006年03月02日

信長の花押とクレジットカードのサイン(2)

jk.gif『功名が辻』第8回放送「命懸けの功名」での、ある場面の話。

一豊(上川隆也)が、信長の使いで家康(西田敏之)のもとに書状をとど
けていた。一豊が口上をのべ、家康がおもむろに手紙をひらいたとき、そ
こには天下布武の印があったが、信長の花押は確認できなかった。

戦国時代、武将たちは花押というものをよくつかった。
文書そのものは、口述で、右筆に書かせることが多かった。そのために自
筆の花押をしるした。
花押は、草書体による署名から、しだいに個性的なものへと変化し、本人
自筆のものであることを証明する、確かなしるしへと発展していったとさ
れる。おそらくは芸術性をおびたものにだ。

草書体は、勢いの妙味であるとか、くずしの美であるとかをたいせつに考
える。つまりは、速く書く。速い運筆と連続的な流れが身上である。西洋
のサインと、この点もよく似ている。
漢字は表意文字であり、原初の象形文字がしだいに簡略化され、さらには
自在に組みあわされたりして、深遠な概念までをも表現できる、ふしぎな
形態へと進化した。
花押は、これをふたたびくずし、個のアイデンティティや精神の表現にも
ちいたのである。

信長は、たとえば麒麟の麒の字をもとに花押を創造したといわれる。
ここでいう麒麟とは哺乳類 ・偶蹄目のキリンではなく想像上の生きものの
ほう。世が変わるとき、天命によってオスの麒とメスの麟が、つがいで現
れ、あらたな天子を指名するといわれる。

信長もそうであるが、いっぱんに花押とともに印ももちいた。
花押のおこりは、中国の唐代といわれるが、やはり中国文明圏では印章が
主とされる。日本でもその風がつよい。中国では4千年以上前から印章を
使っていたといわれる。

印章文化は、中国のひとによると、「信用」にもとづくものであるらしい。
なぜだかはよくわからない。
おなじ文化のなかで、おなじ価値観を共有する、いわば信用社会のものと
いうことかもしれない。

印は、儒教的な格式ともかかわりが深く、王や官の威厳をしめすアイテム
としての意味あった。璽、印、章というぐあいに、身分によってつかう字
もちがうのである。あるいはそこには、信や義といった、観念的な匂いも
ただよっているような気がする。
また、「親魏倭王」の国印が、卑弥呼から台与に継がれたとされるように、
世襲の王がこれをつかうこともできるはずである。
が、サインはあくまで個のもので、国王や大統領といえども世襲はできず、
それらしく威厳のある意匠であるとはいえないと思う。合衆国大統領の公
式文書の威厳は、やはり鷲の国璽のほうにあるのである。
さらに印は、サインとはちがって、他人が押すこともできるし、紛失して
悪用されることもある。

もともと印の起源は、古代メソポタミアではないかといわれ、古代ローマ
世界でも、個人の持ちものを識別するために、さかんにつかわれたという。
西洋では、それがしだいに、サインにとってかわっていったのである。
なぜか?

サインのほうが、証拠能力がたかかったのだろう。
西洋は神との契約社会であるだけでなく、異民族との契約社会でもあり、
世界へむかってひっきりなしに政治的、経済的な取引をおこなっていった。
中華を称し、まわりはすべて蛮族であった中国文明と島国の日本に、印章
文化の風がつよいのも、そこが、たいがいの信義にもとづく信用社会であっ
たからではないかとも想う。
 
平成9年、総務省(当時総務庁)は「押印見直しガイドライン」を定めた。
このガイドラインにもとづく通達により、サイン化の動きがひろまってい
るという。

日本はもう、たいがいの信義にもとづくような、信用社会ではないのかも
しれない。

nob.jpg信長の花押(イメージ)
ie.jpg家康の花押(イメージ)


落款花押大辞典《上・下巻》

●花押関連本

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2006年02月28日

信長の花押とクレジットカードのサイン(1)

jk.gifクレジットカードの裏面に書く署名だが、多くの日本人が、試験の答
案用紙に氏名を記入するように、楷書でしっかりと書いているのではない
かと思う。
これに対し、欧米人のサインは何が書いてあるのか読めない。アルファベッ
トが読めない。
もっともそれは、アルファベットではないのかもしれないのだが。

署名と記名は異なる。正式にはそうなっているようだ。
署名とは、本人がじぶんで氏名を書くこと。記名とは、本人手書き以外の
方法で氏名を記載すること。手書き以外というと、たとえばPCのキーを打っ
て出力したもの、他人が代筆したものなどがある。
クレジットカードの裏面には「ご署名」とあるから、本人がじぶんで書か
なければならない。

クレジットカードで決済するとき、本来、加盟店の店員は、客にその場で
サインをしてもらい、そのサインとカードに記載されているものが、間違
いなく同じものであることを確認しなければならない。つまり本人認証の
ための照合である。いまは書類をつくらず、CATを通してオンラインで処
理するため省かれることが多い。

署名は英語でsignature(スィグナチャー)である。サインは誤用で、和
製英語であるといわれる。辞書にそう書いてある。sign(サイン)には、身
振り、手まねや、符号、記号、標識などの意味がある。
signatureは、とくに書類などに人間が記載するsignのこと、すなわち本
人が書いたものであることを示す記号、符号ということでいいのではない
かとも思う。というのも、古くは文字を知らないひとが多かったからだ。
ヨーロッパの古い契約書などにも、絵のような、記号のようなサインをし
るしてあるものがある。

たとえばOO7(ダブルオーセブン)も、もともとはサインだったらしい。
この物語は、女王陛下に仕える千里眼能力者として、優秀な「目玉」とい
う称号を与えられた男をモデルにつくられたという。男は、目玉を表す、
ふたつのoを並べて、おのれのサインとしたという。

こうなると、サインは単に名を書くことではなく、本人のアイデンティティ
を表現するものということになる。本人認証のための、すなわちsignであ
るから、それは文字に限らなくてもいいのである。だから、欧米人のサイ
ンは読めないことが多い。読めないし、他人には書けない。書けないよう
なものにしなければならない。

じぶんだけのカタチを創造し、いつでもサッと書けるように練習しておく。
文字をデフォルメしてデザイン化したり、記号を加えたりして模索しなが
ら、大人になるまえに、サインのトレーニングを積む。かれらにとって、
サインは「実印」とおなじものだからだ。

筆圧や癖などは、ひとそれぞれに違う。速く書けば書くほど本性としての
個が出る。欧米人は、じぶんのサインを知りつくし、さらに他人のサイン
を鑑定する能力を磨いているのだろう。大統領だろうが、市井のひとであ
ろうが、公式の本人認証ために必要なのだから。

サイン社会では、他人には絶対に書けないような「ミミズののたくったよ
うな字」であるとか、悪筆のひとのほうがいいのかもしれない。
あまりの悪筆であれば、練習の必要もないだろう。悪筆は個性でもある。
逆に字のうまいひとは、想像力にかけるともいわれる。字は模倣の産物だ
からだ。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」によると、維新の原動力となった吉田松陰の
門下生たちは悪筆ぞろいだったという。
芥川賞作家でもある石原慎太郎東京都知事は、悪筆として編集者のあいだ
では有名らしい。
また、ベートーベンは相当な悪筆で、ナポレオンもかなりの悪筆であり、
マルクスはとんでもない悪筆であって、アインシュタインにいたっては字
をおぼえるのにすら難渋したという。
posted by 読書人ジョーカー at 16:46| Comment(0) | 歴史・司馬遼関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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