2006年02月21日

最後の将軍、義昭と慶喜

「人の生涯は、ときに小説に似ている。主題がある。
徳川十五代将軍慶喜というひとほど、世の期待をうけつづけてその前半生
を生きた人物は類がまれであろう。そのことが、かれの主題をなした。」
                -「最後の将軍」司馬遼太郎より-

jk.gifNHK大河ドラマ「功名が辻」第7回放送分で三谷幸喜演じる足利義昭
が将軍に宣下された。
最後の将軍となった足利義昭と徳川慶喜は、ある血筋にうまれたために、
歴史によってある役割を背負わされ、命を運ばれたひとたちなのだろう。
そのために、人生の切所での行動が後世に知られることになった。
滅びゆく幕府の幕(まく)を、どうおろすか。
かれらの役目は、この一点にあったにちがいない。歴史の回転力にはさか
らえない。

足利義昭は、12代将軍義晴の次男としてうまれたため、将軍にはなれずに
出家していた。が、兄の将軍義輝が殺されたため、まわりに担がれて還俗
した。将軍になるために、ちからのあるものを頼って放浪し、やがて信長
にひろわれ、念願の将軍になった。筋目の権威だけはあるが、ほとんど一
兵ももっていない将軍だった。信長がいうことを聞いてくれないと、八方
に信長討伐の令を発する。じぶんの立場がわからず、時代の空気が読めな
いひととして、いつも悲惨な描かれかたをする。
最後は、信長によって、野にほうりだされた。

いっぽうの徳川慶喜は、将軍になることを拒みつづけたひとだった。
出身は尊皇思想の源流であった水戸徳川家で、母は有栖川宮家の王女だっ
た。
期待され、請われ、無理矢理に説き伏せられて将軍になったということを
世間に印象づけることにこだわった。
そして最後の将軍であることを自覚し、そのように動いた。みずからの行
動が、後世に伝えられることを意識しながら生きた。
最後は、「政権という荷物を御所のなかにほうり投げた」。

征夷大将軍とは令外の官(りょうげのかん)で、もともとは東のほうの夷
を討ち、中央政権にしたがわせるための役目をもつ職だった。討ったあと
もしばらく駐留し、その地を治める総督のような立場になる。
日本に進駐してきて、日本を変えてしまった連合軍のマッカーサー元帥の
ようなものかもしれない。初代坂上田村麻呂が、東北の地で農業指導をし
たと思われる水田跡なども残っているという。

征夷大将軍、源慶喜。従一位、内大臣、源氏長者、右近衛大将、右馬寮御監、
淳和奨学両院別当。維新後は従一位公爵、贈正一位。
重々しい官位をたくさんつけながらすごした人生だった。

じぶんの人生が、後世に知られることを意識しながら生きるとは、
どういう感覚なのだろうか。

●「最後の将軍-徳川慶喜」司馬遼太郎


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2006年01月26日

信長と奇妙な塊

jk.gifオーストラリア南部の海岸で奇妙な塊が見つかったという。

「オーストラリア南部の海岸で、地元住民の夫婦がクジラが吐き出したと
みられる奇妙な塊を拾って家に持ち帰ったところ、これが香水の原料とし
て珍重される竜涎香(アンバーグリース)と判明。地元ABC放送による
と、塊の重さは14.75キロもあり、29万5000ドル(約3393万円)相当
の価値があるという…」1月24日〔AFP=時事〕

竜涎香(りゅうぜんこう)はマッコウクジラの体内でつくられる。
このクジラに「抹香」の名がつけられているのも、貴重な香の原料となる
塊を吐き出すからである。ところが竜涎香は、実のところクジラとイカの
合作のようなものらしい。

マッコウクジラは数百メートルの深海まで潜ってダイオウイカなどを捕食
する。イカは一部未消化のままクジラの腸に残り、これに分泌物が絡んで
固まる。つまり竜涎香は、ある種の結石のようなものとされ、体内で育っ
たのち、なんらかの刺激を受けて吐き出されるという。

クジラを捌いて無理に取り出したものは、あまり香りがよくないらしい。
それに、すべてのマッコウクジラが竜涎香を育てているわけではない。自
然に吐き出され、長い間、海洋を漂っていたものこそ貴重であり、香りは
このうえなく優雅であるという。
西洋では古代ローマの時代から珍重され、ときにおなじ目方の、金の数倍
の値で取引された。唐土では、海岸に漂着した高貴な香りを尊び、深い海
の底にひそむ竜の眠りによってもたらされた涎(よだれ)であると想像さ
れた。すなわち、竜涎香とよばれるようになった。

竜涎香は、動物性の香料であるが、植物性の香料のなかで、本邦至高のも
のとされてきたのが蘭奢待(らんじゃたい)である。
蘭奢待、正式には黄熟香とよばれるこの香木は、越南(ベトナム)産で、
鎌倉以前に日本に入ってきたといわれる。東大寺正倉院の伝説的香木とな
り、朝廷の宝物(ほうもつ)として門外不出であった。天下人のみが、そ
の香りを愉しむことを許されたという。

織田信長は、東大寺の僧が持参した蘭奢待を一見して「切れ」と命じ、そ
の場で強引に剥ぎ取らせたという。
現在、蘭奢待には数々の切り取り跡がある。いつ誰が切り取ったのか?
信長、室町幕府八代将軍義政、明治天皇の名を記した付箋(ふせん)が、
それぞれ切り取った場所に貼られている。家康も削り取ったといわれるが、
真相はわからない。

人を惑わす高貴な香りは、自然の神々の手になるものである。
そのあまりの希少性から、地上の権力者たち、あるいは莫大な富を得たも
のたちの果てしなき欲望の対象とされてきた。
それゆえに伝説となり、妖しいオーラをまとい始めた。

香がくべられ、煙とともに神々の匂いが立ちのぼるとき、地上の権力者た
ちは、天上世界を想うのか。仏の住まう極楽を想うのか。

posted by 読書人ジョーカー at 10:32| Comment(0) | 歴史・司馬遼関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月19日

戦国時代とはなにかを考えた2

功名が辻-題名の意味は(01/11)記事へ→


jk.gif不思議なことに、戦乱の世を通して日本の人口はかなりふえたという。
人口がふえたということは、農業生産力が高まっていたということである。

戦国時代は、一般に1467年に起こった「応仁の乱」を始まりとする。
この頃、大陸から伝わった新しい鉱業技術が浸透し、鉄、銅などの金属生
産が活発化していた。
これにより農具も進化した。鉄製の鋤鍬(すき・くわ)などが広くゆきわ
たり、全国で開墾がさかんになっていった。
やがて治水、灌漑などの農業土木工事も行われるようになった。

収穫がふえ、食料の余剰生産物が出るようになると、社会は食うだけの生
活から脱皮しようとする。
専業の職人になるものがふえた。農作物や工業生産品があふれ、それを売
り買いする商人も多くうまれた。さむらいになって、世に出ようとするも
のもあらわれた。

「応仁の乱」は、およそ10年続いた。室町幕府は疲弊した。
新しく田畑を得たひとたちは、求心力を失った幕府を無視した。
開墾地主たちは、権威も警察力もなくなった幕府機構に頼らず、じぶんた
ちで武装しはじめた。武装した地主たちは、やがて守護や地頭に税を納め
ない、独立した存在になる。郎党をふやし近隣の土地を切り取って豪族化
していく。守護や地頭の配下たちも、秩序の混乱に乗じて主家を乗っ取る
ようになる。下克上があたりまえの世となる。これが戦国時代である。

戦国以前の中世は、庶民にとって辛い時代だった。
富は武家貴族や公家、僧侶などが独占していた。
耕作技術は停滞し、収穫はのびず、ひんぱんに飢饉に襲われ、餓死者が出
た。
ものをつくるにも、あきないをするにも「座」に加わらなければならず、
既得権を持つ者に利を吸い取られていた。また容易に「座」の仲間になる
ことも許されなかった。

15世紀後半、下克上のエネルギーが地の底から沸いてきた。
にわかに社会をシャッフルしはじめた。


●参考資料 
歴史からの発想/堺屋太一/新潮文庫、国盗り物語/司馬遼太郎/新潮文庫 他


posted by 読書人ジョーカー at 11:59| Comment(0) | 歴史・司馬遼関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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