縄文中期ごろに創られた火焔土器とよばれるものがある。
立ちのぼる炎を象った、うねりのある装飾形状で、この土器が夜、ほんも
のの炎によって底から炙られる姿を想像すると、あまりにも妖しい。
生命の炎立つ、呪術的な妖しさを想わせる。
火焔土器のすぐれた芸術性を「発見」したのは岡本太郎である。
岡本太郎は、日本風のしぶみや枯淡、あるいは匠の名人芸などには興味を
しめさない。
芸術は模倣するものでも、習うものでもなく、美の徒弟制度などは論外で
ある。日本美術界の権威主義や美術教育、さらには日本文化そのもののあ
りかたまでを激しく叩く。
「芸術はつねに新しい」「美術史はくり返さない」といい、瞬間瞬間に燃
え上がるようなエネルギーを好むのである。
『今日の芸術』は1954年に光文社から刊行、1999年に同じ光文社から復
刊された。岡本太郎は本書のなかで、
「今日の芸術は、うまくあってはいけない」
「きれいであってはならない」
「ここちよくあってはならない」
と宣言する。
そして猛烈な不協和音を発するピカソの「アビニョンの娘たち」は最高に
いやったらしいといい、鬼気迫るような極彩色の古代エジプト美術は4千年
の時を経ていまなおいやったらしいという。
しかし、この魂をひっくり返すようないやったらしさこそ新しさであり、
芸術にとって重要なものであるらしい。
またセザンヌは「ヘッポコ絵描き」であり、ゴッホやゴーギャン、ルソー
などは「素人」だからこそ偉大だという。
「誰でも描けるし、誰もが描かなければならない」のが今日の芸術であっ
て、「部品となった現代人」こそ自己回復のために描けという。
そして「人間的にも社会的にも強く正しく、はるかに明朗な自由」をつか
みとれという。
岡本太郎の作品に「坐ることを拒否する椅子」というのがある。
坐ると尻が痛そうで、しかも原色に彩られた表面には歯をむき出しにした
顔などが描かれている。
椅子は本来坐るためにあるものだが「坐ることを拒否する椅子」があって
もいいじゃないかというのである。
「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」
岡本太郎のこういう発想が好きである。