2006年11月03日

世にも怖い弁当

小判コンパクト弁当友禅楽園紫 お弁当箱

弁当は旨い。
自家製の腰弁当でも、駅弁でも、冷えためしと冷えたおかずが旨いわけ
であって、ほかほかな弁当などは本来邪道ではないかと思うが、昔流行っ
た保温ジャー付きの弁当箱がいまも市販されているところをみると、温
かい弁当が好きな人もいるのだろう。好みはいろいろである。
そういえば僕が通った幼稚園では真冬など、朝、家から持ってきたみん
なの弁当箱を大きな保温器に入れていた。
弁当についての遙かなる遠い記憶である。

弁当は、旧字体では辨當、台湾あたりでは便當と書くらしい。
野良仕事や旅路の携帯食としての握り飯や干飯(ほしいい)などは、日
本人が米を炊くようになってすぐに生まれたと思うが、弁当箱にいろい
ろとおかずを詰めて、いわゆる弁当として食べるようになったのは信長
の頃からのようなのである。

たとえば城で飯をふるまう時、弁当にして配れば、いつでも、どこでで
も自由に食べられるし、給仕の手間も省けて合理的である。名のある武
将たちには、漆塗りの器にでも詰めた、料亭の仕出し弁当のようなもの
を配ればいい。何ごとにも合理性を好んだ信長らしい「発明」といえる。
信長を真似た秀吉が、のちに醍醐の花見や茶の湯の会などで豪勢な弁当
をふるまったとすれば、そうした楽しい風習が、大名家や庶民の間にも
広がっていったのもうなずける。

いまネット上には、「お弁当ブログ」なるものがたくさんあって、旨そ
うな手作り弁当がいろいろと見られる。中には似顔絵弁当など、旨さよ
りもインパクトを狙っているようなものや、工夫を懲らしすぎて悪ノリ
しているとしか思えないようなものまである。
しかし、手製の弁当が広がるのはいいことで、コンビニ弁当やチェーン
店の弁当に愛はなく、ふたを開ける楽しみもない。
あるのはマーケティングと無用の添加物である。

さて、実在した話ではない(と思う)が、この世でもっとも怖いと感じ
た弁当がふたつある。
ひとつは筒井康隆の人間弁当である。
人喰人種に捕まった関西弁の男が、縛られて連れ回される。人喰人種の
腹が減った時に喰われるに違いない。男が生きながらにして弁当にされ
る話である。「人喰人種」(「最後の伝令」新潮文庫所収)

もうひとつは古谷三敏の「ダメおやじ」(小学館)に出てくる金魚弁当。
オニババことダメおやじの妻は、ダメおやじへの嫌がらせとして、会社
に行くときに持たせた弁当の中に、おやじが可愛がっていた金魚を煮て、
「おかず」として入れていたのである。
こんなに怖い弁当はない。
posted by 読書人ジョーカー at 08:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月23日

「算学武士道」

1.gif


日本の算学、つまり和算は中国から伝わったものが独自に発展し、江戸
の頃には微分、積分学にまで到達していたらしい。微積分の概念の発見
者はライプニッツ、あるいはニュートンとされるが、和算関流の創始者
である関孝和も、この二人とほぼ同時代の人物である。

関孝和はライプニッツよりも先に行列式を発見したともいわれる。
西洋では数学は、ニュートン力学などの物理学とも密接に結びつき、近
代科学を支えるものとして活用されてきたが、日本の和算は算師たちだ
けの不思議な知的遊戯となっていたらしい。
橋を架けたり、城を造るための実用算術は必要としても、それを超える
高等算学など、無用の趣味的な学問にすぎなかったそうなのである。

小野寺公二「算学武士道」(光文社時代小説文庫)は、算学に生きた武
士たちの悲哀のようなもを描いた短篇集である。

算学師の世界には、しきたりがあった。
自ら難問を考え出し、解法を見つけた算師は、その問題と答えを額にし
て絵馬のように神社に奉納する。あるいは問いのみを板に書き記し、他
の算師たちに解いてみよと呼びかけたりする。見事解法を見つけたもの
は、算師としての名が上がる。

世の原理のようなものを自ら発見し、算額として神に奉納する。

算学師たちにとっては、こうした行為そのものが、何ものにも換えがた
い喜びだったという。
また評判が高まれば算学道場の教授の職を得たり、公儀や諸藩の役を貰っ
たりもできるのである。

表題作の「算学武士道」は、老いた父とその介護に明け暮れるの母を持
つ貧乏侍の話。嫁の来てもなく、算学を唯一の生き甲斐としていた。
生活に追われているため、江戸に修業に行けなかった。そうした中、た
いして才能もなかった後輩に、難問の解法を先に発見される。

「百五十年後の仇討」は、現代と江戸の数学が交差する話。高校の数学
教師だった男が、寺の住職から古い算額の整理を依頼され、算学勝負に
負けた自分の四代前の算学者のことを知る。そして先祖の無念を、現代
数学でもって晴らす。

「自然は数学の言葉で書かれている」

とガリレオ・ガリレイは言ったらしいが、江戸では高等数学が自然学(科学)
と結びつくことはあまりなかったようだ。あくまで抽象度の高い純粋数
学のみが深化していたのかもしれない。
それだけに、人ではなく、神に奉納されていたという話もおもしろい。
posted by 読書人ジョーカー at 14:17| Comment(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月13日

ドビュッシーと松風

世界のなかの日本―十六世紀まで遡って見る

ドナルド・キーンは、コロンビア大学で教授・名誉教授として長く教鞭
をとっている日本文学者だが、1年の半分以上は東京の自宅にいるそう
である。
勲二等旭日重光賞、菊池寛賞などを受賞し、2002年には文化功労者に
選ばれている。文化勲章もありえるのかもしれない。外国人の文化勲章
受章者にはアポロ11号の飛行士たちがいるが、文化功労者顕彰や宮中伝
達式もない緊急特別の受賞だったようである。

ドナルド・キーンと司馬遼太郎はよく対談していた。
「世界のなかの日本―十六世紀まで遡って見る」司馬遼太郎/ドナルド・
キーン(中公文庫)は、1990年の京都での対談をまとめたものとある。

「はっきりしない言葉はフランス語ではない、といいますが、日本語の
場合は、はっきりしている言葉は日本語ではないといえます。」
(キーン・162ページ)

話は、日本語と外国語の違いから、江戸の鎖国、儒学と実学、神道論、
近松、漱石などの文学、近世の美術などへと自在に飛ぶが、もっとも面
白く感じたものは「懐かしさ」と題された司馬遼太郎のあとがきにあった。

ドナルド・キーンは世阿弥の謡曲「松風」を、文学として最高のものと
信じ、読むたびに感激するという。コロンビア大学の学生たちとともに
読んだときも、感激しない学生はいなかったという。
しかし、実際の能舞台を観て失望したらしい。
「じつは読み込むことによってできあがっていたキーンさんのイメージ
の方が、現実の能舞台よりも華麗で幽玄だったに違いない」と司馬はいう。

「もっともそのイメージのなかでの音楽は、小鼓、大鼓、笛ではなく、
ドビッシーのような音楽だったそうだが。」

内田百聞の短篇をもとに幻想譚を描いた鈴木清順監督の「ツィゴイネル
ワイゼン」を思い出した。
和の陰影の中に、サラサーテの音楽がすすり泣く映画である。

「松風」は、貴人の行平を一途に想い続ける海女の、哀しくおろかな恋
を描く夢幻能。

月はひとつ 影はふたつ 満つ潮の
夜の車に月を載せて 憂しとも思はぬ 潮路かなや

ドビュッシーの「松風」があるとすれば、さらなる夢幻界へと誘われるの
かもしれない。
posted by 読書人ジョーカー at 13:04| Comment(0) | 歴史・司馬遼関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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