君が代は、明治の初め、まず英国人教師によって作曲されたという。
原型はあった。
江戸城の大奥で正月に詠われていた「おさざれ石」の歌だといわれる。
御台所が将軍に年始のあいさつをするまえに、清めの儀式をした。
そのときに詠まれたものだったらしい。
君が代は千代に八千代にさざれ石の
いわほとなりて苔のむすぶまで
妻が夫に会うまえに詠むわけだから、これは夫の無病息災を願うものか
もしれない。
ずっと元気で将軍職を務めて欲しい、あるいは徳川の天下太平の世がい
つまでも続いて欲しいという祈念の意味があるのではないかと思う。
もともとは古今和歌集にも編まれた歌である。
長寿を願う歌、あるいは恋しい人を大切に想う歌ともいえるのかもしれない。
維新後、すべて洋式となり国歌が必要となった。
御雇い英国人軍楽教師であるフェントンは日本の国歌を薩摩出身の原田
宗助に尋ねたが、原田は知らなかった。というより国歌がなかった。
幕臣だった乙骨太郎乙に相談した。乙骨は、さればこういう歌があると、
「おさざれ石」の儀式の歌を教えたらしい。
奇妙なことに原田も知っている薩摩の琵琶歌と同じものだった。
フェントンがその節を譜面に取り、とりあえずの国歌となった。
1870年、フェントン作曲の君が代が観兵式で初演奏されたという。
その後、雅楽の林廣守が旋律を改め、ドイツ人海軍教師だったエッケル
トが編曲した。
これが、いまの君が代だという。
この歌を、初めて国歌としたいきさつについては、司馬遼太郎の
「歴史の中の日本」(中公文庫 )で読んだ。
参考にした史料は海軍七十年史談(海軍技術中将・澤鑑之丞)だといわれる。
わが君は千代に八千代にさざれ石の
古今和歌集の歌は詠み人知らずである。
大奥だけではない。大名も年賀の儀式に使ったという。室町幕府の典礼
をそのまま引き継いだものではないかと司馬は言う。
さらに謡曲、長唄、舟歌、琵琶歌として、日本のあちこちに広がってい
たといわれる。
日本人はこの歌が好きだったに違いない。
君が代の起源はさらに謎に満ちている。
「邪馬台国はなかった」の著者である古田武彦は、わが君とは、筑紫の
王のことであるという説を唱えている。
将軍の世を倒したはずの天皇の世が引き継いだというのも不思議である。
さらに国民主権の世となっても変わりがない。
それぞれにとって大切な、君が代があるのかもしれない。
とにかく、いまの安定が続いて欲しいという願いなのである。
いかにも日本らしい。
改革、改革と御題目のように唱えるけれど、日本人は、変わることをあ
まり望んでいないのかもしれない。
posted by 読書人ジョーカー at 11:56|
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