2006年10月04日

信楽狸

信楽焼 シーソー狸貯金箱

「殿下の息がくそうございまする」
淀はふくれた顔でそういった。
秀吉の死因は胃癌ともいわれる。
胃癌は強い口臭を発生させるらしい。
末期の秀吉には実際に悪臭があったのかもしれない。
「はよ、逝きなされ」
淀はさらに呪いの言葉を吐いて、秀吉の死期を早めていた。
女の妖気がただよう演技だった。
功名が辻、第39回「秀吉死す」

「わしはもはや実の子はのぞまん」
一豊(上川隆也)はそう宣言した。
千代への優しさなのだろうが、あるいは側室に魂を抜かれたような秀吉
の姿を見て、思うところがあったのかもしれない。
秀吉は、死後の権力に恋々とすることで、家を乱したような気がした。

秀吉が逝くことで、恋こがれた天下人となる機会が家康にやってきた。
突き上げてくるようなあまりの嬉しさ、興奮、ある種の不安が綯い交ぜ
となり、呆けた狸のようにダラリとしたのかもしれない。
人間信楽狸だった。
性格俳優という言葉があるが、西田敏行は体格俳優とでもいうべきか。
演技力だけでは、信楽狸にはならないだろう。
posted by 読書人ジョーカー at 18:02| Comment(0) | 「功名が辻」関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月30日

君が代とは?

君が代のすべて〜永久保存版

君が代は、明治の初め、まず英国人教師によって作曲されたという。
原型はあった。
江戸城の大奥で正月に詠われていた「おさざれ石」の歌だといわれる。
御台所が将軍に年始のあいさつをするまえに、清めの儀式をした。
そのときに詠まれたものだったらしい。

君が代は千代に八千代にさざれ石の
いわほとなりて苔のむすぶまで

妻が夫に会うまえに詠むわけだから、これは夫の無病息災を願うものか
もしれない。
ずっと元気で将軍職を務めて欲しい、あるいは徳川の天下太平の世がい
つまでも続いて欲しいという祈念の意味があるのではないかと思う。
もともとは古今和歌集にも編まれた歌である。
長寿を願う歌、あるいは恋しい人を大切に想う歌ともいえるのかもしれない。

維新後、すべて洋式となり国歌が必要となった。
御雇い英国人軍楽教師であるフェントンは日本の国歌を薩摩出身の原田
宗助に尋ねたが、原田は知らなかった。というより国歌がなかった。
幕臣だった乙骨太郎乙に相談した。乙骨は、さればこういう歌があると、
「おさざれ石」の儀式の歌を教えたらしい。
奇妙なことに原田も知っている薩摩の琵琶歌と同じものだった。

フェントンがその節を譜面に取り、とりあえずの国歌となった。
1870年、フェントン作曲の君が代が観兵式で初演奏されたという。
その後、雅楽の林廣守が旋律を改め、ドイツ人海軍教師だったエッケル
トが編曲した。
これが、いまの君が代だという。

この歌を、初めて国歌としたいきさつについては、司馬遼太郎の
「歴史の中の日本」(中公文庫 )で読んだ。
参考にした史料は海軍七十年史談(海軍技術中将・澤鑑之丞)だといわれる。

わが君は千代に八千代にさざれ石の

古今和歌集の歌は詠み人知らずである。
大奥だけではない。大名も年賀の儀式に使ったという。室町幕府の典礼
をそのまま引き継いだものではないかと司馬は言う。
さらに謡曲、長唄、舟歌、琵琶歌として、日本のあちこちに広がってい
たといわれる。
日本人はこの歌が好きだったに違いない。

君が代の起源はさらに謎に満ちている。
「邪馬台国はなかった」の著者である古田武彦は、わが君とは、筑紫の
王のことであるという説を唱えている。

将軍の世を倒したはずの天皇の世が引き継いだというのも不思議である。
さらに国民主権の世となっても変わりがない。
それぞれにとって大切な、君が代があるのかもしれない。

とにかく、いまの安定が続いて欲しいという願いなのである。
いかにも日本らしい。
改革、改革と御題目のように唱えるけれど、日本人は、変わることをあ
まり望んでいないのかもしれない。
posted by 読書人ジョーカー at 11:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月25日

氏より育ち

「氏より育ち」という。
千代(仲間由紀恵)が邸の門前で拾い上げた子の氏素性(うじすじょう)
は定かではないけど、強く賢い子に育った。
悲しいほど一豊(上川隆也)を慕っていた。

功名が辻、第38回「関白切腹」。
拾(ひろい)は自分が捨て子だったということを知っていたという。
拾われて、育ててもらったからこそ、父の期待に添う自分でありたいと
思ったのかもしれない。
父の命をよく聞き、強い武将になろうとしていた。
その態度がいじらしく、一豊と千代の深い涙をさそった。
捨て子に家督を継がせれば、のちの拾自身と山内家に災いをもたらすか
もしれない。
一豊と千代は拾を仏門に入れた。

拾は臨済宗妙心寺の南化国師の弟子となり、のちに大通院二世湘南宗化
となる。
一豊の死後、千代は土佐を出て京の妙心寺の近くに移り住む。
早く拾のそばで暮らしたかったのかもしれない。

拾によって妙心寺と山内家の関係が深まった。
大通院御廟屋には一豊と千代のふたつの卵塔(墓石)が並んでいる。
湘南宗化は、一豊夫婦とよね姫を終生供養したといわれる。
妙心寺大通院は山内家の菩提所となった。

拾は蛙を捕まえて侍女を怖がらせていたが、僕も子供の頃にあれをよくやった。
自分が強い男子であることを誇示したかったのだろう。
posted by 読書人ジョーカー at 12:52| Comment(0) | 「功名が辻」関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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