2006年09月13日

経世済民

一豊(上川隆也)が、めずらしく書見していた。
座敷で書に埋もれていた。
何を読んでいたのかはわからない。
国を治めるため、人智を知るための書のたぐいかもしれない。
「武門と学問、両門がそろって初めて王道が開ける」
という家康の言葉を、一豊は秀次の側で聞いていた。

当時の学問とは何のことだかよくわからない。
四書(論語、大学、中庸、孟子)、五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)
が基本となるのかもしれない。
四書五経には経世済民(経済)や治国、平天下の術のことが深く記され
ているようだ。
「経済」という言葉には、「世を正しく治め、苦しむ民を救う」という
真義があるのだろうが、いまではカネのことばかりをイメージさせる言
葉になっている。

一豊も槍働きだけではなく、大名として掛川築城や町づくり、治世のこ
とを勉強しなければならない。
功名が辻、第36回「豊臣の子」。

秀吉が、大明国に攻め入ると言い出した。
ドラマなどでは、子をなくした悲しみのため、狂ったような暴挙にでた
という描かれ方もされる。
「天下安寧のためには、いくさは続けなければならない」
家康に与えた関八州は、豊臣の直轄領の石高を上回っていたともいわれる。
天下を獲るために大盤振る舞いを続けた秀吉には、もう与える領地がな
くなっていた。
朝鮮出兵は、ふくれあがった諸大名の論功行賞への不満を解消するため、
異国に領地を求めたものとする説もある。
posted by 読書人ジョーカー at 07:24| Comment(0) | 「功名が辻」関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月02日

風呂敷のふしぎ

正絹ちりめん友仙ふろしき雲取り(二四巾)

風呂から上がると床に敷き、その上に足を乗せて体を拭いていたことか
ら風呂敷という名がついたそうだが、江戸の人たちは、湯具や着物もさっ
と風呂敷に包んで銭湯から粋に出ていったらしい。

風呂敷は小さな物、大きな物、丸い物、長い物など、なんでもうまく包む。
一升瓶のようなへんてこなカタチも包めるし、包んでしまえば一升瓶の
長さだけの持ちものとなる。
風呂敷の面白さは、鞄や箱などの入れ物と違って、包む物にあわせて自
身の姿を自在に変化させるところにあるのかもしれない。

何かを風呂敷に包んで持っていく。帰りは折り畳んで懐に収めれば、手
ぶらで楽ができる。
持ち歩いてもじゃまにならないから、いざ、何かを持ち帰らなければな
らなくなったときにも重宝する。
包み方、結び方によって、担ぐ、背負う、抱える、提げるといった具合
に、どんなふうにも持ち歩ける。
風呂敷は単純な正方形の布だからこそ、変幻自在なのだろう。

小池環境大臣は、「もったいないふろしき」というものを考案したよう
だが、これはペットボトルから再生した布地に花鳥図をあしらったもの
で、循環社会を築いてきた江戸の風呂敷文化を広げていきたいというこ
とらしい。

スーパーなどでレジ袋を貰ってこないという、省資源を考える運動のひ
とつとして風呂敷を使う手もあるのだろうが、たんに風呂敷の不思議さ
を味わうという気持ちで使う方が楽しいのではないかと思う。
のれん、膝掛け、花瓶敷き、テーブルクロスなど、包むこと以外にも、
用途はいくらでもありそうな気がする。

「夏の夜に 風呂敷かぶる 旅寝哉」 小林一茶

一茶は、蚊帳の代わりとして風呂敷を使ったらしい。
posted by 読書人ジョーカー at 03:04| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月28日

捨て子は強い

山内家の門前に男児が捨てられていた。
千代(仲間由紀恵)は、その子を抱いて離さなかった。
一豊(上川隆也)は「家督は継がせない」というが、山内家で育てるこ
とを認めた。
子は拾(ひろい)と名づけられた。
功名が辻、第34回「聚楽第行幸 」

「捨て子は強い子になる」
という言い伝えが古くからあったらしい。

そのため、わざと拾や捨の字を使う場合もあった。
秀吉も、淀殿との間に生まれた男児に拾という名をつけている。
のちの右大臣豊臣秀頼である。
秀頼の前に、もうひとり男児があったらしい。
こちらの方は、お捨(鶴松)、つまり捨てられたという意味の名をつけ
られたが、育たなかったようだ。鶴松の死後、2年のちに秀頼が生まれ
ている。

秀吉は、ようやく授かった男児が丈夫に育つよう、城の外にいったん捨
て、ふたたび拾い上げるという儀式じみたこともやったといわれる。
そのせいかどうか、秀頼は大きく育った。
慶長17年、19歳の秀頼に謁見したイスパニア使節セバスチャン・ビス
カイノの記録によると、六尺五寸を超えるという、とんでもない巨漢だっ
たようだ。身長は2メートルに近い。しかも相当な肥満体だったらしい。

千代と一豊の拾は、出家し、妙心寺大通院二世湘南宗化となる。
千代のために、大通院に見性閣を建立した。
posted by 読書人ジョーカー at 13:25| Comment(0) | 「功名が辻」関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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