2006年08月25日

子猫殺し「池猫」

作家・坂東眞砂子の「子猫殺し」なるものに批判が集まっているらしい。
日経新聞(8月18日夕刊)に寄稿したエッセイで、板東氏は子猫を殺し
ていると「告白」した。
タヒチ島に住む氏は、雌の猫を三匹飼っているという。これらが子を産
むので、生れ落ちるや、子猫を隣の崖下の空地に放り投げているという
のである。氏は避妊手術という処理方法を選ばなかったようだ。
「私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任と
して子殺しを選択した」
というのである。
ただし、タヒチはフランス領で、こうした行為はフランスの刑法に抵触
する可能性があると指摘する向きもある。

坂東眞砂子は「日本ホラー小説大賞」出身の作家といえるのかどうかわ
からないが、「蟲 」(角川ホラー文庫)という作品が同賞の第1回佳作
となっている。
「第6回日本ホラー小説大賞」の大賞作品となったのが、岩井志麻子の
「ぼっけえ、きょうてえ」(角川ホラー文庫)で、こちらは人間の子殺し、
すなわち、かつて日本の寒村で実際に行われていたという「間引き」の
話が物語を綴る上での大切な要素のひとつとなっている。

動物は「余分」に子を産むようになっている。
魚などは無数といっていいほどに産む。
それが自然のなかで、うまく育たなかったり、他の生き物に食われたり
して、ほとんどが親になるまで生きていない。自然に適正な量となり、
種が存続している。
自分で間引いたり避妊しなければならない人間と、そしてその人間社会
との関わりのなかで生きている家猫や家犬は、ともに奇妙な動物といえ
るのかもしれない。

子猫殺しで思い出すのは、筒井康隆の「池猫」という掌編である。
(「にぎやかな未来」所収/角川文庫)
男は少年の頃、飼い猫がやたらに子を産むので、しまいには面倒になって、
片っ端から近くの池に子猫を捨てるようになった。
成長し、実家を離れた男が、ある日帰省した。
ふと思い立って件の池を見に行った。
男はそこで、世にも恐ろしいものを目撃した。
posted by 読書人ジョーカー at 08:41| Comment(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月21日

無事是名馬

法秀尼が他界した。
千代(仲間由紀恵)の深い涙が、一豊(上川隆也)の悲しみを和らげて
くれたような気がした。
功名が辻、第33回「母の遺言」。

上川隆也は「無事是名馬を目指す」の精神で、大河ドラマという長丁場
を戦い切る思いを表していた。

「無事是名馬」は、突出した力はなくても、怪我をしないで長く走る競
走馬こそ名馬であるという意味合いの、菊池寛が放った名言。「無事是
貴人」を捩ったものらしい。
「無事是貴人」は、臨済義玄の語録「臨済録」にある言葉で、歳末など
に大過なくすごせた1年に感謝する気持ちの表現として使われることが
多い。もっとも禅語であるから本来は、いかようにでも深い意味を創り
出せる言葉だろうとは思う。

また、山本周五郎の短篇小説に「日々是平安」というのもある。
黒澤映画「椿三十朗」の原作ともなった。三船敏郎の演じた抜き身の刀
のようにギラギラした「椿三十朗」とやや違って、主人公は、のほほん
とした感じで気ままに人生を送っているような風である。

人間は特別なことをしないで、ただ生きていくだけでもいろいろ辛いこ
とがあるし、業のようなものは日々積み重なっていく。自分は何もしな
くても周囲の問題が飛び火してくることもある。怠けていたツケは必ず
あとから支払わされる。親はいつまでも生きているわけではないし、次
第に責任のようなものがのしかかってくる。
ただふつうに生きて、天寿をまっとうするだけでも人は貴いのかもしれ
ない。
「無事是名馬」となることは、大変な努力と気配りがいるのではないか
とも思う。
posted by 読書人ジョーカー at 09:36| Comment(0) | 「功名が辻」関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月19日

穴の底

人間にとって穴というのは一体なんだろうかと思う。

「穴があったら入りたい」という慣用句があるように、恥ずかしくて穴
に逃げ込みたくなるようなこともあるが、逆に穴から這い上がりたいと
足掻くこともある。
「人を呪わば穴二つ」という諺はおそろしい。
他人を落とすための穴を掘っていて、ふと振り返ったら、自分が落とさ
れるための穴も掘られていた、というようなイメージの怖さがある。

伊藤人譽の「穴の底」(人譽幻談 幻の猫所収/龜鳴屋)は、誰がなん
のために掘ったのかわからない穴に落ちてしまった男の話である。
伊藤人譽は室生犀星の弟子で近年、読書通の間で話題になっている作家
らしい。人譽幻談は限定五百十四部ということで入手はしていないが、
図書館で借りてきたアンソロジーで「穴の底」を読むことができた。
男は山の登山道からそれた道で、ある穴をみつけた。好奇心を起こして
近づいたところ、その穴に落ちてしまった。どうということはない穴だ
と思ったが、あと一歩が届かない。あらゆることを試みるが、あと一手
が届かないのである。次第に人間一人ではどうやっても這い上がれない
穴であることに気づき始め、絶望が襲ってくる。
しまいにはドッペルゲンガーだか幽体離脱だかはしらないが、男は男の
自己を観察し始めるのである。

自己ではなく、他人の脳の中に入って世界を観察する奇妙な映画「マル
コビッチの穴」というのもあった。主人公はビルの7階と8階の間に存在
する、やたらに天上の低いオフィスで働き始めるが、そこで奇妙な穴を
発見する。穴はなぜか俳優ジョン・マルコヴィッチというスキンヘッド
の男の脳の中に繋がっているのである。

一方、安部公房「砂の女」は、穴に落ちた男が他人から観察される話で
ある。
男は昆虫採集の途中で、砂の穴に陥る。砂の中の砂の家には女がいた。
女は砂の家で暮らすことに慣れていた。男は逃れようとするが、次第に
女とともに砂の生活に入ってゆく。村人たちは砂穴の中の男女を地上の
世界から観察する。

人間、いつどこでどんな穴に出くわすかわからない。
誰がなんのために掘ったのかもわからない穴があちこちにある。
好奇心を起こして飛び込まなくても、ふと落ちてしまうかもしれない。

また、知らぬ間に他人を落とすための穴を自分が掘っているのかもしれ
ないのである。
posted by 読書人ジョーカー at 13:59| Comment(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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